303エイト

5.

綾目は病室で朝のお漏らしを強制的にチェックされ、汚していたおむつを替えられていた。その看護師がしばらくして体温を測りに来た。
「樹賀さん、体温を測りますよ」 
看護師は綾目を見るなりびっくりしてすぐにモニターのスイッチを入れた。綾目はベッドに寝ながら両手で哺乳瓶を持つようにして自分の右手の親指をチュウチュウと吸っていた。
「看護師長、見えますか」
モニターには手で哺乳瓶を押さえるようにして自分の指を吸っている綾目が写っていた。意識は回復したがときどき眠って夢を見ているように何度も繰り返している綾目だった。
「ええ、見えますよ。樹賀さんの睡眠状態はどうですか」
「夜はきちんと睡眠を取っているようです。昼間もよく眠っているようで声をかけても返事をしないことがよくあるんです」
「もう一度呼んでみて」
「はい、樹賀さん、樹賀 綾目さん、体調はどうですか。体温を測りますよ」
目を開けない綾目に看護師は綾目の肩をゆすってみた。それでも綾目は哺乳瓶のように自分の親指を吸い続けている。
「樹賀 綾目さん」
看護師がもう一度大きな声で呼ぶと綾目は目を覚ました。まるでここがどこだが分らないように周りを見渡すと安心したようだ。現実に戻ってきたと判断すると吸っていた親指を外し、両手も布団の中に入れた。
「看護師長、今、目覚めたようです」
「分りました。樹賀さんには注意してください。後でこの画像を医師に見てもらって相談します。樹賀さんがどんな夢を見ていたのか後で教えてください」
「はい、分りました」
看護師はモニターのスイッチを切ると綾目の方を見た。綾目は恥ずかしそうに顔も布団で隠していた。
「樹賀さん、どんな夢を見ていたのかな」
「夢ですか?夢なのかな、なんか遠い未来に行っているような感じでよく分らないんです」
「そう、未来なのね。その未来でどんなことが起きていたの?」
「そ、それは」
綾目は正直に話せなかった。でもまたこんな夢を見て未来との行き来をするのはもう嫌とばかりに最後の場面だけ話すことにした。
「よく分らないですけど、何か赤ちゃんのようにミルクを飲んでいたようです。詳しいことは思い出せません」
「そう、なんでも良いから思いだしたら教えてくださいね。ミルクはどうやって飲んでいたんですか」
「どうって、それはコップからこうして飲んでいましたけど」
看護師はその綾目の態度で綾目が嘘をついていることを見破った。普通は夢の中の事が言葉で発言され、さらにその行動や態度も実際に現れる。それが人間なのだ。
「そう、分りました。樹賀さんはどんな服を着ていましたか」
「どんな服?よく覚えていないけど普通だと思います。確かパジャマだったと思うけど」
綾目は未来での朝に来ていたパジャマの事を言った。だが、その色や柄までも看護師が質問してくると覚えていないとの返事の連続になってしまった。看護師の質問はこれで終えた。後は医師の仕事と思って病室を後にした。

***

「ピンポーン」
玄関の呼び鈴に綾目の母親がモニターを映す。そこには見知らぬ女性と女の子が立っていた。
「隣に引っ越してきました桜間です。御挨拶に来ました」
玄関を開けると若いママとその子供が立っていて丁寧にお辞儀をした。
「隣に引っ越してきました桜間 恵子です。御挨拶に来ました。この子は小学校5年のマドカです。よろしくお願いします」
綾目の母親も丁寧に挨拶をすると手土産の袋を受け取った。
「御丁寧にありがとうございます。私は樹賀 すみれです。子供は1人で高校生の綾目がいますけど今、入院中です」
「どんな具合ですか、お気の毒に」
桜間は初対面であまり聞いてはいけないと思いつつもつい聞いてしまう。
「試験勉強をがんばり過ぎたようで体調を壊してしまって」
「元気になったら御挨拶させてください。娘のマドカにも挨拶させてくださいね」
「はい、ありがとうございます」
「では、今後もよろしくお願いします。失礼します」
マドカたちが去って行くと部屋の奥で電話が鳴った。母親がすぐに出るとそれは綾目が入院している病院からだった。
「今日の午後2時ですね。綾目の退院のことで相談。はい、分りました。伺います」
 

おとなの赤ちゃん返り
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