飛び火
(ねえ、どうしておむつを当ててはいけないの)

芥川 秀一

週末の金曜日、和也はめずらしく早く帰宅してきた。毎週ではないが、歓送迎会とか、なんだかんだと週末は飲んで帰る日が比較的多い。それでも良夫が生まれてからしばらくは週末の飲み会もだいぶ減っていたが、今日はいつにも増して帰宅時間が早かった。
「おかえりなさい」
「風呂に入りたい」
「はい、もうすぐ沸きますから」
「良夫、一緒に入ろうか」
「後でママと入る」
良夫はパパと風呂で遊びながら入るのが好きだったが、美奈が生まれてからは母親と入ることの方が多くなっていた。和也は仕方なく一人で風呂に入った。
「いい湯だった」
「夕ご飯にしましょう」
和也が席に着き、良夫も自分の席に座ろうとして和也の近くを通りすぎたときだった。
「ん、なにか匂う」
「あら、本当?」
和也はまさかとは思いつつ、良夫に近づきお尻に鼻を近づけるとまさしく当たっていた。
「良夫だ」
和也は良夫を捕まえ、背中からズボンを広げると良夫は大きな方を漏らしていた。そして和也は良夫のおもらしだけではなく、おむつをあてていることにビックリした。
「良夫はおむつをしておもらしをしているぞ」
「良夫、おむつ取り換えるからこっちいらっしゃい」
「はーい」
これから夕ご飯というのに、という言葉も出したいのを我慢して加代子はやさしく良夫のおむつを替え始めた。
「さ、良夫、横になって。ズボンを脱がすのは大変なのよ。いい、ママがやるから。うんちがもれたら大変でしょ」
加代子はなるべくやさしく、良夫の汚れたお尻を拭いてあげた。そしてまた新しい紙おむつを当ててあげると、ズボンを穿かした。
「よっちゃん、ご飯にしよう」
「はーい」
一部始終をみながら、夕ご飯を食べる元気を失った和也だったが、良夫におむつを当ててもいいと許可した以上、和也は黙っておむつ替えを見ていた。しかし、良夫になにか一言言わずにはいられない気持ちとその気持ちの高ぶりからとうとう良夫に向かって言ってしまう。
「良夫、ママが大変だろう。おむつを替えるのは大変なんだから」
「ママ、いいよね」
「そうね」
和也一人だけが取り残されたような気持ちになった和也はだんだん怒り調子になってくる。
「そんなにおむつを当てたいのなら、おむつ替えが楽なように良夫にスカートを穿かせろ。そうすれば、おむつ替えも楽になるだろう。良夫わかったか、おむつを当てるならスカートを穿きなさい。赤ちゃんみたいにおむつを当てて、女の子のようにスカートを穿きなさい。少しは恥ずかしいと思わないのか」
良夫は怒られていると感じ、少し涙を流し始めた。しかし、次の瞬間には父親への言い返しが始まる。
「いいよ、ママがスカートの方がいいと言うならスカート穿くよ。ママ、その方がおむつ替えがラクチンなの?」
「それはそうだけど。でもよっちゃんは男の子でしょ」
「加代子、スカート穿くっていうから穿かせてやれ。おむつがちらちら見えてしまうようなミニスカートを穿かせてあげな。本当にもう。情けない」
良夫はもう泣き始める一歩手前である。目に涙を浮かべながら必死に耐えている。加代子は良夫の気持ちも分かるし、夫の和也が怒る気持ちも分かる。ここはなんとか穏便にしたいと思う。
「よっちゃん、いいのよ、おむつ替えてあげるから。泣かないのよ」
良夫の目からは序々に涙が引いていく。手で涙を拭うといつものようなかわいい顔に戻っていく。
「ママ、大丈夫だよ。パパの言うこと聞いて、スカート穿くよ。だからおむつを当ててね」
「わかったわよ。大丈夫よ」
「パパ、スカート穿くからおむつを当ててもらうね」
和也は返事をしない。スカートは怒ったものの弾みで言った言葉で別に男の子の良夫にスカートを穿いてほしいわけではない。おむつをしているところがスカートを穿けば見えやすくなるので恥ずかしくておむつを止めるだろう。そんな期待も込めて出てしまった言葉だからだ。
「パパ、パパもおむつを当てようね」
「え?」
和也は良夫が何を言っているのかが分からなかった。今までにも祖父の褌に始まり、妻のナプキン、そして良夫は今、紙おむつを当ている。次は和也にもおむつを当てるとは一体良夫は何を考えているのか、分からなくなる。
「パパもおむつを当てよう。おじいちゃんもママも僕も当てているよ。パパだけしないのはずるいよ。ね、ママ」
良夫は自分だけではなんとなく恥ずかしいのか、皆にもおむつを当てたいらしい。祖父の褌、ママのナプキンの話が出てくると、加代子は急に話したくなくなり良夫の言うなりにしてやりたいと思う。しかし、夫の和也にもおむつを当てるというのはどんなものだろう。加代子はこれから何を言い出すか分からない良夫のことを考えると、ここで拒否してしまうのは後々しこりが残ってしまいそうで心配だ。
「パパ、よっちゃんはパパの言う通り、スカートを穿くよ。だからパパもよっちゃんの言う通りおむつを当てようね」
「加代子、こいつなんとかしろ」
和也は思ってもみない展開に動揺している。おむつは赤ちゃんのもの。それが幼稚園生の良夫が当て、さらに自分にも当てると言われると何か時計が高速で逆回転しているような気がする。はるか昔の子供の頃にもおむつを当てられた記憶はない。赤ちゃんの頃には当てていたと思うが、物心ついてからはおむつを当てることなど想像もしたことがないことだ。
「ね、パパ、明日はお休みでしょ。よっちゃんのスカートとパパのおむつを買いに行こうね」
「良夫、いい加減にしなさい」
「ママー、パパはずるいよ」
「そうね、よっちゃんはパパの言う通りスカートを本当に穿くの?」
「うん、大丈夫だよ。ママはその方がおむつを替えるのに便利でしょ。それにパパの言うことだから、よっちゃんは約束を守るよ」
加代子は、良夫の言う通りにしてあげたい。自分のできることならしてあげたいが、夫におむつを当てるというのはいくら良夫のためとはいえ、かなり難しいような気がする。
「ねえ、あなた、良夫は素直にあなたの言うことを聞くって言っているから、良夫の言うことも考えてあげてくれる」
「なんだ、おまえまで、俺におむつを当てたいのか」
「そうじゃないけど、良夫のことも考えてあげて。いつも公平とか、ギブアンドテイクとか話をしていて、いざとなると良夫には恥ずかしいことをさせておいて、自分は何も良夫の言うことを聞いてあげないでは、子供の教育上よくないわ。分かってくれるでしょ」
「しかし。。。」
加代子はその後も和也に説得を続けた。良夫は聞く耳持たずという態度でガンダムで遊び始めているが、良夫は遊びながらも両親の会話をしっかりと聞いていた。
「そうそう、夕ご飯が冷めてしまったわ。食べましょう」
加代子は説得には時間がかかると思い、忘れかけてた夕ご飯をレンジで暖め直した。その日の食事はいつもと違い、何も話さないさみしい食事になってしまった。
 

 

 
inserted by FC2 system